Can't Help Falling In Love

舞台の感想とかネタバレ含め色々

雪組公演「海辺のストルーエンセ」の話

指田先生の作品は「龍の宮物語」はスカステで一度、「冬霞の巴里」は未観劇の為ほぼ初めましてでした。
Twitterにも少し書いていたのですが、整理するためにここに書き始めましたが、くそ長くなって全然まとまらなかったので、ただの思考の垂れ流しです。すみません。
私は朝美さんが好きですが、役としてわりとクリスチャンに感情移入して見ていたのでそちら贔屓の感想になりそうです。
 
〈全体感〉
朝美さんがナウオンで話していた通り、明確な答えはなく受け取り方は自由であると感じました。
余白がたくさんある、詩的な話だなという印象です。
私は色々考えすぎるくらい考えたり、行間を読む(妄想する)のが好きな文学部出身のオタクなので、こういう話は好きだ!!となりました。
むかーーし読んだことのある北欧神話のモチーフも多々出てきており、太陽と月、狼、そして海などの主人公たちを彷彿とさせる言葉も多く出てきます。
これは青春群像です、とも恋愛ものです、とも言えない何とももどかしい、でも不器用で愚かで愛しい彼らを好きになってしまうような話だなと思うのです。
太陽と月を追う狼も、自由奔放に女性を愛し勝利も絶望も与える神オーディン北欧神話に出てきます。
完全には幸せになれないし、結構悲しいお話が多いですよね、神話って。(ギリシア神話もそう)
それを上手く活用した面白い(妄想しがいのある(笑))物語だなと思います。
お芝居、という意味では下級生にまで役があり、大事な役割を果たしていたのがとても良かったと思いますし、初日のご挨拶を見る限り何らかの理由でお稽古期間が短かったので大変だったようなので、その短期間でここまでの世界観を作りあげてきたのは、単純に素晴らしいなと思っています。
主人公たちの関係性や、衣装についてなどはこの後に少し考えていきたいと思います。

〈ヨハンとクリスチャン、そしてカロリーネ〉
一幕のヨハンとクリスチャンの関係がとても好きなので、もうずっと一幕の仮面舞踏会の終わった直後で止まってほしかった。
ここのね、ウサギとライオンの追いかけっこの後の屈託ない笑顔でのやりとりとか、その後みた朝焼けの中で、「ずっと傍にいる」「当たり前だ!」の約束をしたところで終わってほしかった……。
ヨハンとカロリーネも、最初に心を開いてくれた仮面舞踏会前のシーンは、恋愛というよりも「仲間」とか「同志」みたいに見えたんだよね。腕組んで歩いていくところ。
だからこそ、あんな風に火がついて恋に狂ってお互いしか見えなくなってしまったのが、なんかこう残念というか。
仕方ないのかなー恋愛ってそんなもんだよなーと思いつつ、恋や愛を知らない者同士だったから余計だったのかなと思います。
何度も出てくる歌詞で「太陽と月を追う狼のごとく留まることを知らない」的なものがあるんですが。
これ北欧神話で、太陽と月が巡る間に狼がいて、それぞれ太陽と月を狙っているという話がありまして。
北欧神話では太陽は女神なのでちょっと細かい所はおいといて……ラグナロク(神々の時代の終わり・終末)の時には太陽も月も狼に追いつかれて飲みこまれてしまいます。
ヨハンはこの太陽と月をも飲みこむような勢いで、前に進んでいきたかった、と推察されます。
実際、太陽王であるクリスチャンも月のように陰に隠れていたカロリーネも狼であるヨハンに飲み込まれていきます。
北欧神話ではオーディンが狼(前述の狼とは異なるフェンリルだけど)を殺そうとして殺しきれず息子が殺すのですが、これもまた剣によって狼は引き裂かれ、最終的に炎で世界は燃えつくされ、海から新しい太陽が昇り新しい世界が始まる、みたいな物語なので。
完全一致ではないけれど、ニュアンス的に「太陽と月は狼に飲み込まれたが(クリスチャンとカロリーネはヨハンに飲み込まれたが)、狼は剣で殺され(ヨハンは剣を持ったクリスチャンに殺されて)、炎に包まれた後に新しい朝がくる(炎のような朝焼けの後にクリスチャンが王として再度国を負う)」という事なのかなと推測しています。
海辺は彼らにとっても大事な場所なのは、この「再生する場所」でもあるのかなと思います。
話は戻って仮面舞踏会、これまたシーン的にもすごく好きであの振り付けすごくいい。かっこいい。
仮面がね、クリスチャンがライオンで、ヨハンがウサギなのがね……。(このウサギの仮面、1回だけ忘れてきたことがあって手で耳作ってぴょんぴょんしてて可愛かったです…)
百獣の王だけれど優しいライオンと、狼になりたかったか弱いはずの兎。
この対比もな……なんか色々考えてしまう。
あ、あと仮面舞踏会でテーブルに身を隠したヨハンとカロリーネは、ヨハンが手に取った林檎と洋梨を齧ってて。
ここ、大体ヨハンが洋梨なのですがたまに逆になっていたことも。
林檎は「禁断の果実」としてとらえられることが多いですが、洋梨もそう言われることが多いです。
女神が愛した果実とも。
北欧神話ではなくキリスト教の話になりますが、男と女がエデンの園を追われた原因は食べてはいけない林檎を食べたから。
蛇にそそのかされた女が男に与えた、という形なのでヨハンからカロリーネに渡した林檎にその意味は完全にはないかもしれませんが。
そういう意図もうっすらあるのかな、と見ていて思いました。
あと二人で隠れてつまみ食いをする、という「秘密」めいた行動が、今後の流れに不穏な空気を運んできているように思えます。
そしてその流れでクリスチャンとヨハンの信頼度マックス!友情エンドに見せかけての、ヨハンとカロリーネのキスシーン……
思わずしてしまった、感が強かったけれど、マジ辛いこのシーン……
だって後ろでは自分の力で自分の言葉で、新しい未来を作るぞって意気込んでるクリスチャンがいるのに、そりゃないよ……。
そして二幕からはクリスチャンからヨハンに対しての信頼は変わらないのに、どこかよそよそしくなっていくヨハン……。後で芝居の後にブラントに切れる割には、クリスチャンに対して後ろめたい気持ちはあるんだな……。
一幕と二幕ではヨハンの喋り方も表情も態度もどんどん変わっていっていて、その急激な変化が怖いなと思った。
ヨハンはやや多重人格的というか、貴族相手に「錬金術や魔法を使える医師」の役をやっていたせいで、本当の自分や本当の願いを見失っていたのではないかなーと思います。
ただ平民の為にと思っていたものが、次第に国を動かせる力(クリスチャンからの信頼)を得、自分が心を開かせた女性(カロリーネ)からの愛を得て、己が「何者か」になったかのように思っていたのだと思います。
特に愛を得て無敵になったと思っていたから、クリスチャンをないがしろにしてもだんだん心は痛まなくなっていたのかなあ。
だからこそ、芝居で現実を突きつけられて、打ち砕かれて絶望し、あんなに真っすぐ立っていた彼の背中は丸まり、俯くようになり、急に年を取ったかのような衰弱したような雰囲気に変わってしまう
なりたい自分を見極められなかったからこそ、周りを巻き込んで不幸にしてしまったのではないか。そんな風に思いつめたのかなと思います。
クリスチャンやカロリーネは「何者か」ではなく「良い王」と「良い王妃」になりたかった。
でもヨハンは「何者か」になりたかった。
二人とは違って明確な目標がなかったヨハンは、変わっていく環境の中で役割を見失い、何になりたいかもう分からなくなっていたのだろうと思います。
だからどんどん変わっていって、破滅に陥ってしまったのかなと。
でも最初は本当にクリスチャンを癒そうと思っていたんだろうな、と思うのは、酒場で泥酔したクリスチャンが運ばれて行ったあと、ブラントから「彼は昔はああじゃなかった、愛を知らないだけだ」と聞いて、その彼が行った先の方をじっと見ているんですよね。凄く気にかけてる。
勿論、王様と仲良くなれば自分がやりたかった民の為に医療の在り方を変えるようなことが出来るかもという下心がなかったわけじゃないと思うんだけど、それでも最初はただ病を治そうという気持ちだけだったと思うし。
だからクリスチャンも損得じゃなくて一緒に勉強したり変えていこう、というヨハンを信じて心を開いたわけだし。
だってお酒を飲みたいのにお紅茶で我慢しているの、ヨハンに言われたからだよね。ヨハンを信じてるからこそ「ストルーエンセ先生が言うには~」って穏やかになろうと努力している……
そういうところを後から思い出しては、なんですれ違ったんだろう……と悲しくなるのですが。
クリスチャンが最期に「本当に芝居が下手だな、ヨハン」って言うんですが、神奈川公演の最後の方のこの「ヨハン」の言い方が凄く切なくて悲しくて……
やっぱりヨハンのこと凄く大事だったんだろうなと思うわけです。
カロリーネと仲良くしたいとか夫婦仲をよくしたいって言うのも事実で、彼の正直な気持ちだったと思うんですが。
それと同じくらいヨハンのこともとても好きだったんだと思うんですよね。
だから彼らの不貞を怒って咎められなかった。
もし、彼があのオセローのシーンで怒っていたら何か変わったのかな?
この話は「もしこうしていたら」というifが度々見えるんだけど、それでも運命や役割にはきっと逆らえないんだろうな……。
クリスチャンとヨハンは太陽と狼であり、太陽と海であり、ライオンとウサギでもあった。
患者と医者であったし、王と臣下でもあったし、支配下に置かれるものと、支配しようとするものでもあった。そういう役割が決まっていたのよねきっと。
でもきっと最後に「よかったことがあった」って言ったのは、やっぱり彼と友人になれたことだと思うんだよな……役割を超えた関係になれていたらよかったのにな。
ほんまほでジェインとアダムが「本当のことを言える人って多くない」ってお互いのことを認め合うのと同じで、ヨハンとクリスチャン、カロリーネとクリスチャン、カロリーネとヨハン、それぞれが本当のことを言える相手として大事に思っていのだろうなと思っています。
クリスチャンが言う「ありがとう」は前にある芝居が上演される情報を受けての台詞ではなく、一人四角い檻のように見える照明の中で、海をただ見ているクリスチャンがヨハンに向かっていったものじゃないかなと深読みしています。
だったらいいなって……。
海の声が大きく聞こえるのは、「よかったことはあった」とクリスチャンとカロリーネが思えたことに対する、ヨハンの反応のような気がして。
彼は何者にもなれなかったけど、クリスチャンとカロリーネを見守る海にいるのかなと思っています。
(きっと彼をデンマークの土に還らせないだろうなと思うので、勝手にヨハンの亡骸は海に流されたのではないかなと思っています)
しかし彼らの幸せだった時間をもっと見たかった。
テニスしたり乗馬したり、射的したり、ティータイムで笑ったりしていて欲しかった。

〈クリスチャンの右手〉
縣さんがナウオンで話していたようにマクベスの一節「Sleep No More」から幼少期がはじまりますが、子供であったクリスチャンは「眠ったら明日が来てしまうから眠りたくない」という感じなのかな。
明日が来るとまた怒られて手を叩かれるから。
この時に右手を叩かれて知識を詰め込まれています。
そして酒場の翌日、閣議でサインをするシーンではサインだけをして右手を疲れたとでも言うように振って退場していきます。
彼にとって右手はトラウマのような過去の経験があり、そして傀儡の王として常に右手は操られています。
そんな中、ヨハンと出会って一度だけサインをした手を止める時があります。
それは、与えられていた「役割」から抜け出した瞬間。そこから彼はヨハンの進める改革を信じて自らの意思で右手を動かしてサインをする。
けれど恋に溺れ自分の行う改革に酔ったヨハンに言われるままにサインをしながら「俺は今何にサインをしているんだ?」と気づいてしまう。
結局この時も彼は自分の意志で決めていたわけではなく、ヨハンに従っていただけ。
だんだん右手が勝手に動くようになり、操られて次第には倒れてしまう。
右手を押さえてうずくまる彼に、ヨハンは「少し休んだほうが良い」と気遣う。
それにクリスチャンは「ヨハン……」と嬉しそうに笑い、大丈夫と言うように笑みをこぼす。
彼は違う、と思っていた。自分に鞭を振るって役割を叩きこむ人とは違う、と思っていたのにその後に続く一言で凍り付く。
「私が王に変わって命令を出せるようにします」(ニュアンス)
この時の絶望の表情がたまらなく良かった……縣さんのこういう心理表現は凄く上手いなと思う。
朝美さんの生き生きとした瞳の表現もとても好きなのですが(その後のシーンではそれが絶望の色に染まる。光がないのよ……)縣さんのこういうお芝居良いなと思います。
で、この時もふらふらと階段を下りて行きながら右手首を押さえています。
次にこの右手首が印象的なのは、ヨハンとカロリーネの逢瀬の時です。
ヨハンの寝所に忍び込み、オセローの「妻の不倫を疑って殺そうとする」シーンをおふざけでやろうとしたクリスチャンは、返り討ちにあい右手を噛まれます。
そしてそこにいるカロリーネに気付いてクリスチャンの表情はまた凍り付きます。
あれはもう絶対わかってたよね……ここでヨハンが何も言わないか、謝るか何かすればよかったのかもしれないけど自分たちを正当化しようと「医者だから二人で逢うこともある」みたいなこと言ってて、今それ言うべきじゃない……と思いました。
所で、なんでクリスチャンはヨハンの寝所に黙って入り込んでたんでしょう?
元気だよってことを伝える為にふざけに来たのかなと思って、それくらい仲良しだったんだろうなと思うから余計にカロリーネを見た時の絶望感が凄い。可哀想……。
この時もずっと右手を庇っていて、その後舞台を見ている時も、右手のことを気にしている。
ヨハンからも『大丈夫か?』と聞かれて『もうだいぶ治ったよ』みたいなやりとりを、上辺では気軽に話をしている。
それを後ろにいるブラントが冷たい目で見ているのが怖い。
この舞台はクリスチャンの目を覚まさせ、カロリーネに諦めさせ、ヨハンに自分の行った過ちに気付かせるためのものなので、彼は皆を傷つけることが分かっていたけれど、あえて見せているんだよね。
彼もまたあの皆で笑いあった時に戻りたかったんだろうなと思う。遅かったけど。
王妃と医者の不貞を舞台上で目の当たりにして、クリスチャンは過呼吸のような症状がでてヨハンにおびえて立去る。その時もずっと右手首を握っていて。
元々トラウマレベルじゃないですが、右手って。
それなのにウサギだと思ってたヨハンにその場所を噛まれるなんて辛いよね……。
でもその後不義が判明してヨハンを始末しろと言われるクリスチャンは嫌だと言い続けますが、その時にもずっと右手を庇っていて、ここに消えない傷を残したヨハンのことをこんなにも庇うのかと切なくなりました。
そして最後には右手でライオンがウサギの仮面をかぶった狼を始末して、新しい太陽が昇ってくる。
彼はずっとあの右手を気にしながら生きていくんだろうな……。
サインをするたびにヨハンのことを思い出すんですよ、傷を残された、そして同時に彼を傷つけた右手ですからね……。

〈衣装と装飾品〉
全体的に衣装がとても豪華で美しく、色遣いも曇り空の多いデンマークに合わせてかくすんだ色が中心です。(特に王宮の人たち)
そんな中、輝かしい色合いをしているのはクリスチャン陛下のみ。
この黄色は彼がデンマークの王でありたいようであり光であることを表していて、セットの中にも出てこない花のモチーフは恐らくこのクリスチャンの服にしか出てこない。
ここは分かりやすく彼が特別であることを表していると思う。
色合いとしてはヨハンも医師⇒錬金術⇒仮面舞踏会⇒秘書官長など役職持ちと「役割」が与えられていくと次第に色が強くなっていく。
最初は暗い茶や黒のような沈んだ色、錬金術では青を基調とし貴族相手だからと金ボタンなどがついている。
仮面舞踏会からは胸元のスカーフリボンも色が明るくなっていき、2幕からは赤の上下に変わる。
燃え上がる恋を表すようなヨハンの赤の衣装、そしてカロリーネも2幕からはピンクのドレスを纏い髪を高く結い、飾りをつけている。(※これはユリアーネの言う「デンマークのやり方も覚えるように」というところにもつながりますね、と先般お話していて教えて頂き確かになーと。宮廷の女性たちと同じような衣装・髪型になっています)
最初は青の落ち着いた色合いだったのにだんだんと色がはっきりし、豪奢になっていく。
この衣装の変化や、今までつけていなかった指輪を2幕からはヨハンがつけてくる(しかも右手の薬指)のは、彼らの気持ちの変化を表現していて見ていて面白い。
そして衣装のポイントとして、私が上手いなと思ったのは2点。
これはあくまでも私の考えなんですが。
彼らの衣装は、
・王宮=くすんだ色かつ金箔(金の汚れのような模様)が散った衣装
・政治に関わらない子供や働く人たち=通常の色(茶や黒、赤など普通の色遣い)であり金箔はない
・役者=白をベースにしていて金箔はない
と分かれていて、①この金箔の意味と、②役者が白なのは何故かという所が、この後に語る「役割」の部分にもかかわってくるなと思っています。
①について。
この金箔、基本的にはドレスやジャケットについているのですが、まずヨハンとカロリーネは最初の登場時にはなく、ヨハンは仮面舞踏会から、カロリーネはヨハンが秘書官長になってからつきます。
最初からの変化としては、ヨハンは「自分が王と一緒に政治を行う」と思い始めた頃だと思われます。
そこまではただの治療としてクリスチャンと接していましたが、この仮面舞踏会から「一緒に世界を変える」欲を持ち始めます。
カロリーネの変化は、外の世界を知っただけでなく、ヨハンという愛しい存在を知ってしまった。つまり知らなかったはずの「愛」を知ってしまったこと。
この感情の変化が、彼らにも王宮の人たちと同じ金箔を纏うきっかけになってしまった
この金箔は何なのか?
実はクリスチャンは洋服には金箔が(多分)ついていません。※2階か3階からしかほぼ見てないので、肉眼では確認できずです
ついているのはブーツです。
最初からずっと履いているブーツ。これに金箔がついています。
そして仮面舞踏会の時の白っぽい靴、これにもオペラグラスで覗く限りは金の模様がありました。
彼は最初から金箔があり最後までそれが取れることはありません。
そしてヨハンとカロリーネは外から来た人間なので最初はなかったと考えます。
ということは、この金箔はデンマークの中にいて、王宮の中にいる人たちについているもの、ということなのかなと。
そして庭師や王宮の女性の子供、兵士には金箔はついていない。
なので、王宮の中にある権力や欲望のようなものが表に現れたものではないかなと思います。
医師であるストルーエンセ先生からしたら、これこそが「王宮の中にある病」なのだと思います。
これを取り除くために貴族や官僚たちを次々に治療をしていきますが、一方でヨハンにも同じ金箔がこびりついて、それは最期の時まで身にまとったままです。
カロリーネは元の青のドレスになった時にはそういった欲や権力、病からは目が覚めていたという事なのでしょうかね。
ヨハンは絶望を味わってもなおその病や欲に侵されていて、それはもしかしたらクリスチャンやカロリーネ、ブラントを救おうとした個人的な欲なのでしょうか。
ここはこれだという明確な答えが考えられなかったのですが、「役割」にしがみついている人や、「己を過信して与えられた役割を超えようとした」人につくのかなあと思っています。
ちなみに前述の通り、クリスチャンは自由に動くために必要な足に金箔がついています。
つまり権力や欲望、病に「足を取られている」=「ここから動くことが出来ない」のではないかと思います。
クリスチャンはどうあがいても動けない、「国の光」という一番大事な役割を負っているのだろうなと。
それは彼の望んだ欲ではないけれど、彼の逃れようとしても逃れられない病なのかもしれません。
②の白の衣装の役者たちは、これは「何者にもなれて、何者でもない」染まれる色、という意味合いでこの色なのだろうと思っています。
彼らは役を演じ物語や真実を伝える役割を担っているので、王宮の中のくすんだ色とも、王宮の外の濃い色遣いの人たちとも違う色を纏っているのではないかと。
この役者たちの服、かっちりした服ではなく、みんな重ね着をしている感じの自由な感じになっているのも可愛かったな。

〈役割と場所〉
ここまで役割の話をたくさんしてきているのですが、このお話の中では「役」ということに重きが置かれているような気がします。
王という役目、王妃という役目、摂政という役目、医師という役目……
役を逸脱すると「首を切られる」と役者たちは謡っていて、それは単にお芝居をちゃんと演じないとクビになる、というだけじゃなくて、現実世界での「役」も同様だと謡っている気がします。
つまり、それぞれに与えられた「役割」は変えられず、それを超えた行動をすると排除される、という事なのかなと思います。
この劇中劇や歌が「夢ではなく現実を伝えてくれる」という構図になっていたのが、結構好きです。
お芝居や物語は「嘘」の世界を書くものとして扱われることが多いけれど(同期間やっていた「舞台刀剣乱舞 禺伝」でも同様な立ち位置で描かれ、本当にそれは「嘘の世界」なのかと問われる)、このストルーエンセの中では、事実を突きつけるためのものとして使用されている。
役者は「嘘」を言えるけれどまた「真実」も言えるといえ、そして白の衣装を着ているから「何者にもなれて、何者でもない」から、自由な意見が言える。
本当の言葉を言えない、海の声が聞こえる場所(海辺)でしか本音を語れない人たちにとっては、それは羨ましくも残酷な存在なのではないかなと思います。
セットも凄く凝っているわけではなくシンプルなんだけど、そこがどこなのかはちゃんとわかるようになっている。
出てくる場所は海辺・王宮・酒場・劇場を基本としていて、王宮の人たちは王宮にしかいない(カロリーネとクリスチャンは除く)し、役者は王宮にはいない。
つまり彼らには役割があって、その場所にしか存在できない(生きられない)ものなのだと感じました。
海辺はカロリーネにとってはヨハンに「真実」を言えた場所、ヨハンにとってはクリスチャンの傍にいるという願望を口に出来た場所。
そしてクリスチャンにとっても新たな王……太陽になりたいと誓った場所。ヨハンが傍にいることを「当たり前だ」と伝えた場所。
ここでは皆真実が言える、だから朝焼けは彼らの思い出になったんだと思います。
そんな海辺でヨハンは嘘をつく。
あの場にいた3人からはもうそれはバレバレの嘘だったのだけど、彼はあえて「悪者」を演じて、自分が「毒」であることを示していたのかな。
クリスチャンの役割は国を照らす光であり続けること、余計なことはせずにただお飾りの王でいること。
民が国を支えているので、その国の象徴である王が絶対である印象を付けなければならない。
そのために、正しく民から愛される王でいる必要があり、役割を超えてしまったものをきちんと処理する必要がある。
それがヨハンとブラントの処刑であり、カロリーネの追放だったのだと思います。
だからヨハンはクリスチャンが死なずに生き残る方法として、クリスチャンの手で殺される道を選んだのかなと。
のちにユリアーネが「英断だった」といっていることから その判断は恐らくデンマーク国の王としての役割にちゃんとそぐっていたのだと思います。
だから彼は暗殺されず王であり続けているのだと思うし。
(ユリアーネはいつかは自分の子を王の座につけるとしているものの、国が倒れることは望んでいない。クリスチャンが例えばヨハンと共に自害するような道は望んでいなかった(スキャンダルだからね)と思われます)
最後に私は良い王妃にはなれなかった、俺も同じだ、とカロリーネとクリスチャンは言っています。
彼らの役割は「良い王妃」であり「良い国王」だった。
その役割を超えたせいで、二人とも大事な存在を失ったのだと思います。
でもそれでも「良いことはあった」つまり「良い出会いはあった」んですよね。
そう思いたい。
しかし役割とは言え「悪者」となったヨハンは、「悪者を倒した正義の王」クリスチャンがどんな気持ちでこの後生きていくか、考えていたんですかね。
めちゃくちゃつらい人生だったろうなと思うんだが……だってそれって役割であって本心じゃなくて本当は、「友達」とかの言葉でくくってもいい関係だったのに。
役割って難しい。

〈男爵と侍女〉
そんな悲しい役割のやり取りの中で、身分違いの恋をゆっくり育んで幸せになる二人がいます。
要所要所で逢瀬を重ねて、秘密のプレゼントを渡し愛を確かめ合う二人は、とても可愛らしくて。
最下級生が演じているのがまた初々しさもあってよかったですね。
これはもしかしたらヨハンとカロリーネがなっていたかもしれない関係性、の象徴のような、当てつけのような、対比なのだなと思います。
彼らのように、燃える炎のような想いをそっと秘めながらいれば、もしかしたらあの笑いあっていた時のままに近い時間を過ごせていたかもなあ。
この男爵さんは衣装が水色で、当然恋に溺れてもヨハンのように衣装が赤く染まることなく、凪いだ海のように優しい色をしています。
そういう衣装の割り振りにも意図があるように思えてしまう指田先生のお話ですね。

〈番外編:ユリアーネ〉
ユリアーネ様、愛すみれさんの鬘とドレス姿がとても素敵で冷たい女の雰囲気がとても良かったです。
それでいて息子に向ける瞳は温かかったりするのが……
カロリーネがヨハンに心を開く海辺のシーン。
憧れた全王妃の話をする彼らの後ろにゆっくりと現れるユリアーネ
ここはカロリーネの話の中なので、現実に通りかかったわけではないと思いますが……
この時に歩いてきたユリアーネは、カロリーネの方をちらりと見て、それから少し眉を顰めどこか物憂げな表情でゆっくりとターンをします。
その後はすっと背筋を正し前だけを向いて歩いていく。
この時のユリアーネには台詞もなく、シーンとしては手前にいるカロリーネやヨハンに視線が向いてしまうので、目立たないところなのですが…
私はここのユリアーネの何とも言えない表情と、毅然とした態度の王妃の強さに、心惹かれました。
ヨハンがいなくなった後、彼女は「愛することも愛されることも知らなかった私には」といいます。この台詞凄く脆く聞こえる。
彼女もまたドイツから嫁いで後妻に入り、子供は生んだものの夫は浮気ばかり……カロリーネとユリアーネは実は境遇が似ていて、けれど彼女には「ヨハン」みたいな存在は現れなかった。
だから、ずっと変わらず、愛を知らず、政治を裏で操らなくてはいけない「役割」を担っていたのかな、と。
彼女はカロリーネのことを少なからず気にしていたのではないかなあと何となく思っています。
本当は優しく迎え入れたかったかもしれない同じ境遇の若き王妃、でもユリアーネには「役割」があり、彼女はただそれを全うしていただけで、彼女もまた「成りたいもの」にはなれなかったのかなあと思うのです。
すみれさんはどこか面倒見の良いお姉さん的なお役どころが多いですが、今回のお役はそういった素地があった上での冷たく孤独な女性としてとても素敵な演技だったなと思いました。
意外とこの人面白いのは、仮面舞踏会でヨハンに盾にされても文句は言うけど邪険にしないし、そもそもちゃんと参加してくれる。
あとテニスシーンでグルベアのサーブしたラケットが頭に当たり、平手打ちをかますところも好きです(笑)
ぞくっとするのは、ブラントの決めた演目(オーディンと王と王妃の話)を見ている時、最初はつまらなそうにしていて、グルベアが話しかけても塩対応なのに、オーディンが医者に化けたとたんに目を見張り、そのあとじわじわと笑いを浮かべて最後は扇で口元を隠しながら、『あらあら大変ねえ』みたいな感じでクリスチャンを見ているんですよね。過呼吸になりそうなくらい動揺しているクリスチャンを。
そこの暗がりのお芝居も好きでした。


全然まとまらなかったけどたくさん書いてしまった(笑)
ユリアーネ様が実は結構好きで、割と見ていたので熱くなってしまった。
ブラントもちゃんと掘り下げたいけどとりあえず今回は割愛。彼もまた難しい役どころでしたね。流石諏訪さん、お上手だった。
ユリアーネ様の傍にいるグルベアの叶さんもまた不思議な色気と怪しさがあり、けれど彼もまた彼の「役割」を果たしていたなあと思うのです。

自分の役割ってなんだろうなあと何となく思いながら、ストルーエンセ先生の愛の個人病院横浜院は閉院してしまったので、次は梅田院へ治療してもらいに行きたいと思います。